人として生まれて最高に生きる — 山の中で出会った、本当の豊かさと強さ
「意味のある休息の取り方」が話題を集めている。
著書『Google社員はなぜ日曜日に山で過ごすのか』を通じて、「人間力の回復」を提唱するジャーナリスト 河原千賀(xアカウント)さんは、まさに山の中、米国のカリフォルニアのロスパドレス国立森林公園で、静かな自然に囲まれて暮らしている。日本とアメリカ、教育と不動産、専業主婦とビジネスパーソン -まるで異なる両極の価値観を生きてきた千賀さんが、「本来の自分で生きること」に向き合い続けてたどり着いた「人として生まれて最高に生きる」とは。現代の中での豊かさの在り方の本質を探る。
「人生で本当に大切なことと、なんだろう?」
忙しく過ぎていく日々の中で、ふとそんな問いが胸に浮かぶ。でも、それ以上考えずにやりすごすか、答えがわかとも、それを実現するのは無理だと諦める人の方がふつうだろう。だからこそ、千賀さんのように、その答えを素直に実現した生き方に魅力を感じる。
そんな千賀さんのこれまでのストーリーは、特に40〜50代の女性たちにとと、「これからの生き方」を考える大きなヒントになる。
ポッドキャストはこちらからお聞きください。
幼少期の問い—「私はどこから来て、どこへ行くの?」

―大阪生まれ、大阪育ちだそうですが、どんな子どもでしたか?
印象的子供のときは本とよく遊びましたね。 昭和生まれというのもあるんですけれども、近所の子供たちがもう年齢とか関係なくみんなどこかの場とかに集まときて、とにかく遊んだという思い出がたくさんありますね。結構外で遊ぶんですけど、家ではよく泣いてました。
今考えると不思議な子供で、ちっちゃいときから寝ながら、生まれる前、私はどこにいたんだろう?とか私が死んだら今度はどこに行くんだろう?とか考えてました。私がいなくなるとこととか死もあるんですけど、生まれる前もすごいなと。そんなことを真剣に夜考えてました。
―「生まれるまえにどこにいたのか?」小さい時に答えは見つかりました?
考えたら眠れなくなと、夜に起き出して階段下りてテレビを見ていた両親に「死んだらどうなるの」と聞いたり。母は「死んだら土になるのよ」と言ったんですけど、そうすると土になるとはどんなことなんだ?と、またもっともっとモヤモヤしたり。こういうことを考えるような子供でした。
命がすごい大事だというのを小さい時から直感的に感じていたので、お肉とか食べれなかったんですよ。 すき焼きお刺身とかの夕食のときにも、お刺身についてる大根しか食べられないような子どもでした。今は、全然大丈夫なんですが。
―幼児教育に興味をもたれたきっかけは?
命がとても大切だと直感的に感じていたので、人間として生まれて最高に生きるとどういうことかと、小さい時から興味があったんですね。その頃は、ジョンロックの思想「子供は白紙の状態で生まれる」がとても流行っていました。小学校でも先生から「君達は何にでもなれるんだよ。」 といつも聞いてたので、それなら幼児教育がとても大事なんだと思ったんですね。 それで、幼稚園の先生になろうと思い幼児教育を選びました。
でもね、子育て3人して子どもは白紙で生まれるは嘘だなというのはわかりましたけどね。子どもは、白紙じゃないですよね絶対に。人は生まれたときから個性丸出しですよね。やっぱり不得意不得意とありますし。赤ちゃんのときから性格もはっきりしてます。そのときは子供を育てたことはなかったのでそう信じたんですよ。
ジョン・ロック(John Locke, 1632–1704)は、イギリスの哲学者であり、近代民主主義や自由主義の礎を築いた人物。特に教育、政治、社会契約論において大きな影響を与えた。ダブラ・ラサ(Tabula Rasa)人間は白紙で生まれる、ロックは「人間の心は生まれたときは何も書かれていない白紙のようなもの」と考えた。つまり、人は生まれながらに知識や道徳を持といるわけではなく、経験や教育、環境によと人格や知識が形成されるという考えから、のちの教育思想にも大きな影響を与え、「どんな子どもも環境次第で変わる」という前向きな教育観の土台になった。
幼児教育の現場の厳しさとカリフォルニアへの移住

―幼児教育を学ばれて、どんなことを感じましたか?
もうとても楽しかったんです。幼稚園にも就職しようと思ったんですけど、当時はお給料がとても安くて。私の時は、手取り9万円にもならないぐらいで。昭和のね。それで朝早くから夜遅くまで働くから、私にはこれは無理だと思ったんです。 だから結局、日本の幼稚園では働いてないんです。
―アメリカに留学しようと思ったきっかけは?
アメリカとアメリカの思想に興味があったのと、日本はいつも雨が多かったので、カリフォルニアの星空にとても憧れてたのもありますね。 それと学校が仏教の学校だったので、アメリカ的な考えを知りたいと思ったのもあります。
私、昔からあんまり考えないで飛び込んじゃうタイプなんです。当時は、 英語がもう全然できなくて。 その頃、日本で英会話がとても流行してたんですけど、英会話に通ってもきっとあんまりものにならないなと思ったんです。それで、飛び込んじゃうしかないと思ったんですね。なのでもう本当に、いきなりカリフォルニアに行きました。
―アメリカで心理学を学ぼうと思われた理由は?
心理学は元々とても興味があったんです。 だから、日本でも幼児教育科心理学を学びたいと思いました。でも心理学だと4年制の大学で、幼児教育はその頃短大だったんですね。 私の頃は、女の子はみんな短大に進学していました。 4年生を目指してた人もいるかもしれないけれども、そういう人は本当ごく少なくて。
本当にね昭和だなと思うような感じですが、2年で卒業して、3年働いて結婚しなさいみたいなパターンです。会社も、それ以上いられたら御局さんみたいで困りますと。今だとハラスメントになりそうですが、その頃は堂々と言われていました。
大学で勉強していたら、面白そうなプログラムがあるからと同級生に教えてもらって、そのまま大学院へ進学しました。あまり留学生がいなかった頃だったので、日本からの留学生が珍しかったんだと思います。 心理学の先生も多くて、この日本人の子は一体何を考えてるんだろうみたいな感じで、興味を持ともらえたんだと思いますね。
―アメリカ生活をはじめてギャップとか驚いたことはありますか?
ロサンゼルスだったからかもしれないんですけど、人がいい加減なんですね。そのいい加減を許せる自分になりました。まあいっかみたいな。日本みたいに何でもきちんとしたい人は、多分とても大変だと思います。だから、私のだいたいも結構許してもらえるみたいな。だからよかったです。
河原千賀さん(xアカウント)
アメリカ在住ジャーナリスト 大阪生まれ。1988年よりアメリカ在住。大谷大学短期大学部幼児教育学科、カリフォルニア州立大学心理学部卒業、同大学院教育心理学部修士課程修了。アメリカ人と結婚し、3児の母となる。ロサンゼルスの幼稚園教師として勤務後、フルコミッション制の不動産エージェントに転職。離婚後、2018年より、ロス・パドレス国立森林公園内の、山々に囲まれたプライべートコミュニティに在住。星空の美しい自然の中で、人間として最高な人生とは何かを研究し、人間力を回復するための数々の活動を行なっている。著書『Google社員はなぜ日曜日に山で過ごすのか』
教育の可能性を信じて、貧しい家の子どもたちが通う幼稚園へ

―大学院で学ばれた後は、アメリカで幼稚園の先生として働いたのですか?
はい。大学院でも教育心理学を専攻して、その中でも幼児教育を集中して勉強したんです。 大学院の教授から「ロサンゼルスで一番貧しい子供たちが通う幼稚園と、物すごいお金持ちの子どもが通う幼稚園と両方見てらっしゃい」と言われて、インターンシップに送り出されたんです。
その貧しい子たちが行くのは、ヘッドスタートという、政府が関係している幼稚園と、もう一つは、費用が何万ドルもするようなところで、PTAにもみんなすごい車でやとくる。
その頃、お金持ちの人たちの間で、ジョン・デューイの教育哲学をもとにしたプログレッシブなカリキュラムがとても人気があったんです。実践型学習を体験しながら学びますみたいな。
その両方を見て、私は就職するときに、どっちにしようかなと迷って。何もかも与えられてる人よりも、やっぱり教育の可能性みたいなのを信じてヘッドスタートにまずは就職したんです。
ヘッドスタート(Head Start)
ヘッドスタートとは、アメリカ合衆国政府が1965年に開始した、貧困家庭の子どもたちのための「包括的就学準備支援プログラム」。主に低所得家庭の3歳~5歳の未就学児を対象にする。社会的・経済的に不利な立場にある子どもたちが、就学前に必要な発達や学習の基礎を身につけ、学校教育でのスタートラインを平等に近づけることを目的とした。「出発点(Head Start)」という名前の通り、教育格差の是正が狙い。
ジョン・デューイの教育論
ジョン・デューイは、プログレッシブ教育の「理論的支柱」とされる。彼は著書『学校と社会』『経験と教育』などで、教育は「準備」ではなく、「生活そのもの」であり、また知識は、教わるものではなく、自分で構築していくものと述べている。「子どもが自分で探究しながら学びを組み立てる」という考えが、プログレッシブ教育の根本にある。
プログレッシブ教育
プログレッシブ教育とは、「進歩的・経験重視・子ども中心」の教育方法を指す。19世紀末〜20世紀初頭に、ジョン・デューイが理論を打ち立て、広めた。詰め込み型ではなく、実体験から学び個々の興味や関心を尊重することが特徴。教師は知識を教える存在というより、子どもの学びのファシリテーターであり、生活や社会と結びついた探究型学習・プロジェクト型学習のプログラム。
夫との子育ての感覚の違い「母親はあなたしかいない」

―幼稚園の先生としてはどのくらい働いていたのですか?
幼稚園の先生はね、多分3年ぐらいです。本当はずっと働きたかったんですよ。 2つめの幼稚園、サンタモニカマリブの公立の幼稚園は、公務員みたいな感じなので安定してるんですね。 社会保障とか、その後のペンション(年金)とかも。だからずっと働きたかったんです。
元旦那が大学の先生だったんですけども、その夏休み、彼は休みで、私は働いていて。当時、子供2人いたんですけど、オムツオムツだけして裸に近いような状態で、一緒にクーラーがガンガン効いた部屋で、ロジャーズ観戦してるんです。 ピーナッツ食べながら。赤ちゃんがピーナッツ食べてるのもびっくりするし。
冷房がギンギンきいているのも体に悪いし、なんだこれと思って。でも、やっぱそれも仕方がないなと。彼には彼のやり方があるんだろうと。
その辺は良かったんですけど、ある日近所の方から電話がかかときて、「あなたの旦那には絶対言っちゃ駄目よ。あなたの子供たち、屋根の上に登っていたわよ」と電話がかかときて。それをその後すぐに日本にいる母親に電話で相談したときに、「お仕事はね、誰でも代わりがいるけど、母親はあなたしかいないのよ」と言われて幼稚園を辞めることにしました。その頃、上の子はオムツ取れるの遅かったんですけど、歩いてるから、多分3歳で、下の子が1歳半ぐらいでした。
―幼稚園をやめたあとは、どんな感じですごされましたか?
子供たちと一緒にいる時間はめちゃくちゃ楽しかったです。元々幼児教育だったので、よしこれでお家を学校でするみたいな感じで。近所の公園にいったり、図書図書館であるイベントには全部参加したり。海に連れて行ったりとか。家にいるというよりも、子連れでいろんなところに出かけましたね。
不動産エージェントという実力主義の世界に飛び込む

―専業主婦から不動産エージェントというコミッション制の中へ飛び込んだきっかけは?
私はね、もう専業主婦でハッピーハッピーだったんです。 そのままずっといて、本当に幸せだったんですけれども、家計が火の海で。旦那は大学教授なりたてだったので、本当にお給料が安かったんです。彼だけの給料では、もう完全にやっていけないとなと。とにかく働かないといけなくて。9時から5時は、前例があるので絶対無理でしたし。 だから時間に自由度がある仕事を探しました。
時給でちまちま働いてたら、この家計は解決できないと思ったんですね。 だから成果報酬の実力主義の世界でなきゃ駄目だと思ったんですよ。 アメリカに留学したときもそんな感じで、思ったらすぐ飛び込んじゃいます。よし不動産エージェントだ!と思い、すぐにライセンスを取りに行くための勉強をして、不動産のエージェントになりました。
―エージェントになるのは大変ではなかったですか?
勉強はね、日本で普通に受験勉強会とかしてたら、こんな勉強とか簡単にできちゃうと思います。それより大変だったのは、いざ英語でこのビジネスをしていかなきゃいけない。アメリカ人を相手にするのがもっと大変でした。初めて事務所に行くといきなり電話がかかってきて、これ英語で取るんだと思おもったら「家を売りたいんだけど見に来てほしい」という熱い電話だったんですね。
初めてなので習ったことを全部、教科書通りに用意して、プレゼンに行ったんです。 一生懸命しゃべったら、温かい白人のご夫婦で、後で「一生懸命頑張ったね。でも、違う人を頼むことにしました。」そんなお電話いただきましたね。
今は私はブローカーのライセンスを持っていますが、初めはエージェントとしてブローカーにつかなきゃいけないんです。2年間ほどポリオリアリティという大きな会社に入って、そこでエージェントとして働いてました。
―フルコミッション制の仕事に飛び込んでみてどうでしたか?
すごいですね、本当に生き馬の目を抜く世界です。 不動産で一攫千金みたいなのを狙っている人たちが来るし。まとまった教育が要らなくて、ライセンスさえ取れればいいから、すごい人がいっぱいいました。 激しいです。 揉まれました。 はい。
でも本当に家計が火の海だったからできたことだと思います。 楽しく平和に生きてたら、きっとしなかったですね。 本当に大変だったんですよ。その上、元旦那のお金遣いがすごくて。音楽家で作曲家だったんですけど、アーティストで、あんまり物を考えないんですよね。どんどんどんどん何か買ってきたりするのでクレジットカードがすごくて。
もう、とにかくこれを返済しなきゃいけないというのと、子供を育てなきゃいけないというので、もうやるしかないみたいな。もう後ろはないぞみたいな感じだからできたと思います。
もう今考えると私の性格でよくできたなと。自分の力じゃない。そんな感じでした。
―最初はとても大変だった様子ですが、途中で変わったきっかけがありましたか?
もちろん大変な世界なんですけど、その分のエージェント同士でとても協力し合うんです。 その中で特に良かったのは、アリアというアジア人だけが集まったノンプロフィットの組織に入ったことです。 そこで出会った仲間たちがとても良くて、今でも交流があります。そこの活動を通して、不動産をしながら、何かいろんな社会活動ができたのがとともよかったです。
例えば、貧しい人たちのものや家を直したり、ファンドレーザーをたくさんしたり。ネットワーキングづくりのイベントとかしょっちゅうしてました。たくさんの違う業種の方とも繋がったし、特に政治家の人ともよく繋がるようになりましたね。ポリシーとか作るのに、私達はこうしてほしいと伝えたり。
不動産を通して、貢献するみたいな感じですよね。貧しい人たちのために、こういうポリシーならいけないとか、それはストップするとか。
家を購入するためのローンを扱うローンオフィサーともつながったり。ローンの仕組みをよくわらない初めての人が家を買うと、大変なことになるので。 あとシニアの方を守るワークショップを開いたりとか。楽しかったですね
AREAA(アリア)は、アジア系アメリカ人および太平洋諸島系(AAPI)の人々が不動産を通して経済的安定や富を築くことを支援することをミッションとしています。アジア系に特有の課題、言語の壁、金融知識やローン制度への理解不足、文化的な不信感などに対して、専門的なサポートとコミュニティのつながりを提供している。
ローンフォフィサー:住宅ローン担当者、融資担当者、融資アドバイザーなど。
離婚、そして「山へ移る」という選択

―不動産エージェントをされていた時に、離婚されたのですか?
18年ほど結婚してたんですけど、やっぱり違いが大きくなって。私も家庭は一番大事だと思ったので、絶対に離婚は選択肢にないと思っていたんですけど。子どものこととか考えると、やっぱりいつかは決断を出さなきゃいけないというので。本当に苦しい決断だったんですけども、離婚になってしまいましたね。
3人の子供に一番影響がないようにと真っ先に考えて。 アメリカは離婚が多く、小学校に子供を迎えに行くと、同級生の子供が大きな大きなカバンを持って、帰ろうとするんですよね。大きなカバンを持って、今日はお父さんのところに行くからと。2日間お父さんところに行って、あとはお母さんのとことか行くとか。
それはしたくないなと思ったんです。 だから家は、子供と前の主人とおいて、私が出ていったんです。 私が他のところで借りて、子供に会うときはそこに訪れる形にしました。
とにかく子供を安定したところに置いてあげたいというのが一番でした。特に不動産をしてたので、場所があるのはとても大事だと思ったので。
―千賀さん自身がその頃気をつけていたことは?
当時はサバイバルでした。私が離婚したいと思った時に、話し合うとかいろいろあって、3年は様子を見てみようと思ったんですね。 思いつきで離婚してしまうのもいけないと思ったので。その間に、カウンセラーにも一緒に行ったりして、 やっぱり駄目だなと思ったんです。 向こうからいろんな指輪をくれたりね、いろいろと言ってくれたんだけど。指輪とかじゃ駄目ですよね。
やっぱり駄目だと思って離婚届を出したときに、相手が豹変してすごい大変だったんです。一緒にもう1回頑張ろうとか熱く言っていたのに。その届け出が来たときに、共同で持っていた銀行口座を閉められちゃったんです。 だから私は手元にね、現金が1ドルもない状態で。私は、甘かったので、銀行口座を一人で閉められると思っていなかったです。
とりあえず経済的に自立することをまず考えましたね。
―その頃はまだエージェントをされていたのですか?
エージェントだから離婚できたと思います。頑張ってお家を売ればお金が入ってくるというのがあったので。あのころは、ノリに乗ってました。そんなのに負けないぞみたいな。
でもそういう何かエネルギーは、周りも感じるんですよね。いろんな人がね、ビジネスで協力してくれて、流れもできて。今考えるとあの頃は本当にすごいノリノリでしたね。
結局エージェントは不動産は、山に移るまでずっとしていたので、13年間していました。
LAの不動産事情とお金の話

―山へ移ろうと思ったきっかけは?
小学校の頃から、軽井沢とかでペンションを開きたいと夢を持っていました。そういうのがブループリントとしてあったと思います。 それが多分あって、何となくこれからどうしようと思って。その時、結婚して共同でも持っていた家だったんですが、元旦那が怖い人になったので、これ以上関わるともっと怖くなると思って、私から「もう家も何もいらない」と言ったんです。
それで、ロサンゼルスで借りて住んでいたので家賃がとても高くて。いつぐらいまでできるかな?と考えて、このままエージェントをずっと続けていくのは、しんどいぞと。
アメリカのエージェントは、広告費とか全部自分で出すので自営業みたいな感じです。ビジネスするのにとてもお金かかるんです。 いい車にも乗らなきゃいけないし服装もきちんとしないといけないし。特に不動産なので、持ち物とかも見られちゃうから。そうやっては続けられないなと思って。イメージをキープするためのお金がいくらかかるか?をずっと書き出しました。
それと、不動産から引退して山で過ごしたときに、そういうもの全部いらなくなったときの費用を比べて。 15年も家賃を払と働いているとすごい疲れちゃうなと。リタイアメントまでずっと働いて、家賃を払っていくら貯金すれば、どのぐらいの貯金になるのかを考えました。
不動産は、ロサンゼルスでは大抵上がります。一時期下がっても、また絶対に上がっていくので、15年もローンを払って、払い終えたときの家の価値と比べたら、絶対に買った方がいいぞとなったんです。
ただ山に憧れただけじゃなくて、15年後にいくらお金ができてるかというのを考えたときに、一生懸命朝から晩まで身を粉にして働くより、山で家を買う方が、自分らしい生活もできるじゃないかと思って、山に移ってきたんですよ。
このときは、しっかりとお金の計算をして、セーフティーネットをおいて飛び込みました。
それとタイミングがいつもいいんですよ。その辺も直感もあるんですけど、その時も一番金利低かったんですよね。
お金を使わない山の中の生活

―山の中に移って一番変わったと思うことは?
山の中にきて、消費主義に陥らなくても住めるようになった。 あまり物は買わなくても生きていけるというか、物がいらなくなりました。山の中の小さなコミュニティなので、あまり資源もないですよね。お店がいっぱいあるわけじゃないので、みんなが協力し合います。 EverydayExchangeといって、みんながいらないものを持ちよる日があって、そこで物々交換をしたりとか。物と何かを交換するみたいな。お金がそんなに要らないです。
この前も屋根の下の金属みたいなのが剥がれてカタカタしていて、近所の友達とか来るたびに風が吹いてパタパタするので「早く直す方がいいよ」とか言いながらそのままにしてたんです。そしたら、噂が広まって、知り合いのコントラクター(大工さん)の耳に伝わって、ある日、ただで直しに来てくれました。そんなコミュニティです。
―お金がかからない?
はい。昔のアメリカのよい風習が残ってて、助けてくれますね。 雪が降ると、お年寄りのところに男の人が集まって雪かきしてあげたり。そういうのが普通にまだ残っているコミュニティです。
都会にいると全てをお金を払って買うという感じなんですけど。自分ができることと物を変えたりとか、昔は多分そうだったと思います。小さなコミュニティだから、それができるんだと思います。
―初めてコミュニティの人の助け合いに触れてどう感じました?
最初は日本人風に、何かしてもらったらすぐにお返ししてってやっていたんですけど、それは少しこの雰囲気に合わないのがわかって。すぐじゃなくて、もっと余裕を持って相手が必要なときにさりげなくできるなって。もう少し時間にゆっくりと、お返しができるようになりましたね。
妹が駐在員で来てたことがあるんですけど、駐在の仲間で、お返しをするのがとても大変だと言ってました。もらったものの価値がどのくらいか、まず見積もるんですよね。
ワインとかもらったら、グーグルでいくらのワインだったんだろうとか調べてから、このぐらいで返さなきゃとか。ここでは、そういうのからは外れて、もっとゆったりした感じで、何かのときに、何か自分ができる形で何かするとかでいいのかなと。
お金のためより、もっと自分らしいことをしたい

―本を書きたいと思ったきっかけは?
ちっちゃい時から本が大好きだったんですね。 いつも本を読んでいて、親も本が欲しいと言ったら、いつでも買ってくれるような環境だったんです。 本ととても特別な関係があって。いつか書けたらいいなぐらいにしか思ってなかったんですね。 だから自分が書けるとは別に全然思ってなくて。
山に引っ越すときに、不動産の広告で「この家はものを書いたりする人によい家です。」なんて書いてあったのが、潜在意識に入ってたんです。 思い込みやすい方なので、そうかもしれないなと。その広告に「この家は朝日が昇るのが見えて、夕日が沈むのも見えます」とあったんですよ。 普通そんな広告はあんまりないですよね。普通は、ベッドルームがいくつかあるとかなのに。
本当にね、ばあっとひろがる森が見えて、朝日が出てくると感激するんですよね。それを毎朝見てるうちに、何か揺すぶられたというか。
―先日ライブで見せてもらいましたが、とても贅沢な場所ですよね。
ええ。それで、もっと自分らしいことがしたいなと思えるようになったんです。 今までは、どうしてもお金をとにかく稼がなきゃいけないという思いが全てにあったんです。 日本で幼稚園で働かなかったのも、この給料じゃやっていけないと思ったからだし、不動産に入ったのも稼がなきゃいけないとか、お金がモチベーションだったんです。
でも、そうじゃなくて本当に自分では何ができるんだろうと振り返ったときに、ちっちゃい時からいつも大切にしてた人間として最高に生きる生き方というのを、自分は全然してないと思ったんですよ。 それを考えて、その朝日を見ながらゆっくりした生活してるうちに、何か残したいなという。私の思いを伝えたい、でも伝えてすぐに消えてしまうんじゃなく、残る形にしたいなという思いが出てきたんです。
本を書けたらいいなと思ったときに、出版ゼミの広告がポンと現れたんですね。 こんなタイミングで、そういうのをとても信じる方なのでこれはシンクロニシティだと思と。これは行ってみるしかない!と、申込みをしてそこからです。
―千賀さんと私がであったのも、ブッククオリティという出版ゼミを通じてでしたね。
人間力とは、「内なる力」を呼び覚ますこと

―『Google社員はなぜ日曜日に山で過ごすのか』の中で、人間力を回復すると書かれていますが、千賀さんにととの人間力とはどのような力ですか?
これがとても深い問いで、それを少し考えたときに、そうか「人間力」ってとても曖昧で、どうとでも捉えられる言葉だということに気づいたんですね。 調べてみると、日本で言われてる人間力は、内閣で人間力戦略研究会が発足されて、それにレポートが出てるんです。日本の企業が「人間力」という時は、それを元にしています。
そこには、社会を構成し、運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力と定義されてて、その総合的な力は、知的能力的要素、社会対人関係力的要素、自己制御的要素、三つにわかれてるらしいですね。 これを「人間力」と決めてるんだなと思いました。私の考える「人間力」とは、少し違うんですよ。 だからこの本を書いたときも、ここをちゃんと定義しておけばよかったなと思ったんですけども。
―千賀さんの考える人間力とは?
これでね、この後レポート書きたくなるぐらい面白い。
私が思っているのは、あの本にも書いてるんですけども、私、自分でね、寝るときとかに、この進化の過程を考えるんですが、凄すぎるんですね。なんで人間ができたんだろうと思ってそれが謎で謎で、もう神秘的でもう震えるぐらい驚くほど神秘的なんです。まず人間より先にどうやって地球ができたんだとか?場所がないと人間と生きられないので。
そう考えたときに、この長い長い進化で得た人間の体というのは、すごい能力だとか知恵を持ってるのに、私達は発揮できずに、普段は生活してるわけです。 だからそれを開発したいという思いがあって。英語で言うともっとわかりやすくて、私の「人間力」を英語で言うと「ヒューマンポテンシャル」とか。 リソースフルネスだとか、アダプタビリティ(適用できる能力)だとか。
やっぱ進化の中で得られた、この何ていうのか、可能性ですよね。それを引き出したいという思いがありました。日本でいうと昔の山伏のような、修行に近いものを目指しています。
でもこれは本にできないので、もう少し現代ふうにマインドフルネスですとかデジタルデトックスだとか瞑想とかになといます。やっぱり突き詰めると山伏の世界になります。
―人間としての生物として生命力を高める?
ええ、そうです。 だからこの内閣が定義している人間力というのは、もっと社会に適応して、いかにいいメンバーでいられるかと。 ですけど、私の場合はその素晴らしい人間の潜在力を持って理想とする未来というものをしっかりと捉えて、それを作り出せていける人間になる。適応するというよりも、理想を持って、それを作り出せる人間の方が、人間力になるんじゃないかなと思います。
―『Google社員はなぜ日曜日に山で過ごすのか』で伝えているエッセンスは、人間力を上げるための方法が書いてある?
そうなんです。簡単にできることでないと難しいので、できるだけ普通にぱっとできるようなことにしようと。 でも掘り下げていくと、そういうちっちゃなことからやっぱり自分を少しずつ鍛えていって、人間のパワーにアクセスできるような人が増えるといいなという思いが、本当はあの本にはたくさん詰まってるんです。編集者さんがとても上手に文章をまとめてくださっていて、読みやすくなっています。
―最後に休むのが苦手な読者の方へのメッセージをお願いします。
やっぱり人生のプライオリティというのをはっきりさせて、あんまり大事じゃないことというのはもうそんなに一生懸命しなくてもいいし、もう人に任しちゃうんです。やっぱお互い様だと思って、何かしてもらうときにはもう本当にありがとうと感じで素直に受け取って、どうでもいいことはもう本当にどうでもよく、60点ぐらいでいいなみたいな。そういう手放しが大事だとおもいます。そのためにも、瞑想とか、心を鎮める習慣を10分でも20分でも毎朝もっていると、1日のスタートが全く違ってくるのを実感します。
今日は1日ゆっくりしようと決めたら、もうその時間というのはとても自分にとって大切な時間です。何もしてなくても怠けてると思わずに、私には必要なんだ、私はする価値がある人なんだと思って。 休んだらいいんじゃないかなと思いますね。
今の季節なら、桜を見てほっこりした自分の気持ちを忘れずに、これが私のよい気持ちなんだと感じたりして。そういう時間を日常に10分でも、20分でも持つと少しずつ変わると思います。
コメント
コメント一覧 (2件)
自己表現がうまくない私の、普段は隠れているけど、私が大切にしていること。
それらをリエさんが、素晴らしく引き出してくださったインタビューになっています。
会話を通して、私がしてきた事への自己発見、確認ができました。
ありがとうございます!
千賀さん、あらためてとても心に伝わるお話をありがとうございました😊千賀さんの生き方や、大切にしていることなどに触れるとてもよい時間でした。